勝手な独り言です。論理的整合性はないかもしれません。意見を伺いながら修正していくつもりです。ご容赦ください。

「なぜ人を殺してはいけないのか」

これをキーワードにして検索エンジンで検索するだけで、たくさん出てくるのに驚いた。

ある人は「こうした質問に答えはない」と言い、ある人は「こうした質問に答えられない『大人』は情けない」と言い、ある人は「いけないからいけないんだ」と言い、ある人は「実際に母親になってみれば理屈ぬきに分かる」と言い、またある人は「悲しむ人が周囲にたくさんいるからそうした人を自分の勝手で悲しませてはいけないんだ」と言う。

内海健先生は「幼稚な質問」とその著作(「精神科臨床とは何か-日々の新たなる経験のために-星和書店」の中で言い、大江健三郎氏は「そのような質問が出てくること自体が問題だ」と言っているらしい。この大江氏の言説を「ずるい」「逃げている」と批判する人は多いようだが、私としてはこれが一番実感に近いような気がする。が、講義で問いかけておきながらすぐには明確な答えの出せない自分がもどかしい。

フロイト、更にはラカンの鏡像段階、シェーマLが示唆しているように、本質的には人は「自分」「主体」を認識し得ない。全ては幻想、錯覚なのだろう。「本当の自分」というものは存在し得ない。(より「本当の自分」に近いものは探求可能だろうが・・・)とすれば、「私」とか「自分」というものは、「母親」で表象される「他者」によって始めて出現し、「父親」によって表象される「(大文字の)他者A」によって確認されて、やっと存在可能になるのであろう。「人」は「人間」としてしか存在し得ない、というテーゼに通じるものがある。こうした「幻想」を維持するためには何らかの「支点」が必要になると言うのも肯けるように思う。

これが、内海先生によれば、「原核細胞」→「真核細胞」→「多細胞生物」と環境に適応すべく変化(進化とは限らない)し、「個」が出現し、DNA=「種」の保存と「個」の保存に矛盾が生じて、「個」の死が必然となり、それが「サル」から「人」に至って、「個」としての死が必然であることを自覚せざるを得ない能力を持ちながら、尚且つ「(主体的に)生きる」ことを運命付けられている、すなわちいつかは死ぬことがわかっていながら、「なぜ」「どう」生きるかを考えないと生きられなくなってしまった人間の宿命なのであろう。これを考えずに紛らわして過ごす「人」をハイデガーは「ダス・マン」(ただの人、世人)と言って脱価値化している。(もしかしたら、「虫」の方が、生命体としてはより上位にあるのかもしれない、という理屈もこの文脈で生じる。「虫」は「個」の存続よりも、純粋に「種」=DNAの保存を志向している。)

(実際、環境の変化に適応する可能性を維持するためには、単なる細胞分裂よりも有性生殖の方が有利である。元々の個体とはある程度は似ていながら、異なるDNAを作り出す可能性が開けるからである。だから精神分析は異性を求める本能的エネルギーである「エロス」「生の本能」「性欲動」「リビドー」を人間の全ての活動のベースにあるものとしてその仮説的理論を構築しているのである。更に、人がいつかは死ぬことを前提としながらも豊かに?生きていくためには何らかの「支点」が必要だと論じている。その「支点」は古来(あるいは今でも)は「天空」や「神」や「法」darma」や「王様」や「生産力の限りない向上という幻想(資本主義社会)」「社会的?地位の確保」「財産の確保」であったのだろうし、それを「王様は裸だ」と喝破したのが、ダーウィン、マルクス、フロイトなどだと言われている。精神分析の領域では、その「支点」を「ペニス」→「ファルス」と喝破したのがフロイト→ラカン、クライン《→ビオン》、ウィニコットなどなのだろう。更に、そうした「支点」を「トゥリー状のハイアラーキー」に求めるのは限界があるので、「リゾーム」に求めるしかないのではないかと提案したのがドゥルーズ及びガタリなのだろう。)

要するに、この文脈で考えれば、「人」が「自分」「私」として存在するためには「他者」が必然的に必要なのであり、「他者」を否定する「殺人」は「自己」を否定することに他ならないことになる。だから「なぜ人を殺してはいけないのか」という疑問を呈示することは、「自分」の存在を否定することと同義であり、だからこそ「幼稚」だし、「こうした疑問を感じること自体がおかしい」ということになるのだろう。(但し、「ノモス」という「幻想」を維持するための「殺人」=戦争や死刑、は、本質はともあれ、とりあえず正当化されうるのだろう。)

ところが、この「理屈」は、「自分の存在」を是とせず、否定する、すなわち自殺を真摯に考え、正当化する人々には通用しない。ここで、内海先生の言う「人は『死』を象徴化しないと生きていけない」という言説が意味を帯びてくる。「死」を象徴化できないことが、自殺や殺人の美化・正当化につながるということであろう。すなわち、「自殺」や「殺人」を考えること自体が、あるいはそれはいけないことだという超自我的な考え方に疑問を呈したり、それを美化・正当化すること自体が、何らかの「トラウマ」などによる「象徴化の障害、挫折」なのだという考え方である。とすれば、取り返しのつかない「自殺」や「殺人」を正当化・美化し、実行(行動化)する前に、やむをえない事情によって?「象徴化の障害、挫折」が起きている要因を整理し、探索し、解決することが必要・有用なのではないだろうかと考えることができるのではないだろうか。少なくとも、この方向で考え、動くことは、「取り返しがつかない」ことにはならないだろう。「取り返しがつかない」ことをする前に試してみる価値はあるのではないだろうか。


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